在宅医療のあるべき姿

01 在宅医療のあるべき姿

在宅医療のプロとして追及すべきこと

医学教育上は病院医療中心に学ぶので、在宅医療も施設中心にシステマチックに行い、緊急時には病院に搬送すればいい、といったイメージを持っている医師が多いのが現実でしょう。

また、病気に対する医療行為自体は教育されますが、患者さんの生活という視点での教育はなされていないように思います。

例えば、癌の末期であれば緩和の薬を処方して痛みが抑えられればそれでOKなところがありますが、生活といわれるとその意味すら分からないというのが現状でしょう。

医学的には正しく、後は最期の時に往診に行けばいい、そうした行為に何の疑問も持たないことは、ある意味当然の結果かもしれません。

実際、そのような考え方で在宅医療を標榜している開業医も多いように思われ、在宅でできる医療は所詮限られたものであり、最期の看取りだけ行えばいいといったイメージも強いのではないでしょうか。

在宅医療にはこうした、“入院治療の劣化版”といった誤解があるように思います。

しかし、当法人が地域で信頼されている理由は、まさにこうしたやり方ではない部分であり、逆に、こうした在宅医療を行っていると、確実に淘汰されてしまうと考えています。

在宅医療のプロフェッショナルとして、私たちが追及すべきことは“在宅で長く過ごせる”ことをサポートし実現させることであり、そこに在宅医療の最大の目的があると考えています。

在宅医療はオーダーメイド医療である

当然、病院医療の最大の目的は病気を治療することですが、そこには患者さんの生活は一切入り込まず、ある意味で特殊な環境といえるでしょう。

しかし、患者さんそれぞれに地域での生活があり、ご家族の思いや信仰もあります。病院というアウェイではなく、家庭という患者さんのホームにおいて本人が安心して生活できるようにサポートすることが、在宅医療の最たる役割であるはずです。

在宅でしかできないことがあるからこそ訪問する価値があり、それは医療行為に限ったことではありません。

医療の知識を生かして、患者さんの生活をサポートしたり、悩みを聞いてあげたりすることを含めた行為全体に価値があると考えています。

逆にそれができなければ、入院治療の劣化版だというレッテルをはがすことはできないでしょう。

患者さんやご家族に寄り添い、一緒に悩むということが大切なのであり、それが在宅医療の原点であると考えています。

こうした観点で在宅医療を考えるのであれば、患者さん本人の希望を実現させるために医療と掛け合わせるという行為を、患者さんやご家族と一緒に積み重ねていく、カスタマイズしていくことが必要です。

そういう意味で在宅医療は入院治療の劣化版などではなく、“オーダーメイド医療”であることをしっかりと認識してほしいと思います。

イメージ:オーダーメイド医療

人生を支える医療人が集う場所に

医療では病気になれば入院と考えがちですが、患者さん本人が入院したくない、あるいは治療したくなければ在宅で、という発想もあって当たり前で、本人の選択を尊重し、その“人生に寄り添えるかどうか”が在宅医療の根本だと考えています。

こうした本人の希望に寄り添った医療が継続できると、結果的に無駄な入院が避けられた、あるいは入院したが短期で済んだ、そして最期は家でという本人の希望が叶えられることとなるでしょう。

教科書通りの治療行為だけでは劣化版との指摘を一概に否定できませんが、患者さんやご家族と一緒にその人の人生を支える医療を行うことは、在宅医療でしか経験できない大きなやりがいとなるはずです。

このように、患者さんの生活を支える在宅医療をやりたいという医療者が来る法人であるべきであり、そうありたいと願っています。

02 “在宅入院”という独自の考え方

入院という正義がもたらす弊害

従来の在宅医療では、安静時だけ在宅で診て、何かあれが入院、それを繰り返すというのが一般的でしょう。

例えば、誤嚥性肺炎の場合、在宅で悪くなると病院に入院し、数値が改善すれば家に戻り再び在宅、ということが多くなります。これを2回、3回と繰り返しながら、次第に終末期へと向かって行くのです。

この時、病院が診ているのは主に肺炎だけで、画像や炎症反応による数値を見ながら、抗生物質で数値が改善すれば肺炎は治ったから退院となりますが、患者の全身状態が治ったわけではなく、全身状態は確実に下降線を描いていくのが一般的です(図)。

イメージ:肺炎の全身状態の変化イメージ

こうした病院の対応は、それ自体が間違っているわけではありません。

ところが、私たちの目線からすれば、確かに肺炎は一時的に治ったかもしれませんが、全身状態では2割とか、確実に元気がなくなって戻ってくることとなってしまいます。

CRPが10以上になれば入院しなければならないという概念自体が、もはや患者さん本人の意思が無視された行為となり、医療行為が最大の正義だという考え方がもたらす弊害だといえなくもありません。

在宅医療の7割は生活をみること

私たちが考える在宅医療は、医療は3割、残りの7割は“生活をみる”ことに他なりません。

しかし、入院では大切な7割がすっぽりと抜け落ちることとなり、終末期に半分入っているような誤嚥性肺炎を発症するような場合、
個人的には入院する必要はないとさえ考えています。

医師によっては「在宅で、もしものことがあればどうするのか」ということばかりを気にして入院を選択させることがあります。
ところが、肺炎が治ったとしても入院したことで認知症が進行したり、筋力が衰えるたりして、自宅に戻った時には患者さん自身の生活は消えていたということにもなりえます。さらに、二度と我が家へは戻って来られないことさえあるのです。

そうなれば、結果的に入院したことが裏目になりかねませんが、そうした結果に目をつぶっている医師も少なくないのが実情でしょう。

しかし、在宅医療が患者さんの生活を支えるオーダーメイド医療であることを理解していれば、患者さんの生活が置き去りにされた入院が最善、という判断にはならないはずだと考えます。

患者さん自身がどうしたいのかを重視し、その人の生活を第一に考えるならば、“在宅で入院”という考え方は、決して不自然ではないはずです。
そうした理解の上で、在宅医療がどのようなものかをしっかりと患者さんやご家族に説明すれば、在宅医療を選択する人が多いのが実情です。

あえて在宅入院と表現する意味

病院では誤嚥性肺炎でCRPが0になれば基本的に退院となります。もちろん、在宅でも医療行為としてはほぼ同じような判断にはなりますが、
そもそも治るということには元の状態になるまでに必ずタイムラグがあります。
若い人が風邪を引いても2~3日のタイムラグがあるのは当然で、まして高齢者の方においてはもっと時間を要するはずです。

炎症反応が0であっても、患者さんが送るべき普通の生活に戻すところまでを治療の一環と考え行動しないと、肺炎は治したが“生活を治した”
ことにはならないのです。

病院で入院患者さんの様子を毎日確認しないことなどありえません。そうであるならば、在宅医療においても抗生物質を打ったから、
もう訪問しない、という判断にはならないはずです。

在宅であることは入院状態と同じであり、入院では欠如してしまう生活をみることを第一に考えれば、毎日様子を見にいくのが当然だと考えています。

生活までみるということはある意味、病院入院以上の医療であり、他の在宅クリニックでは対応できない患者さんを受け入れることも多いのです。

私たちが果たすべき役割という意味も込めて“在宅入院”という言葉をあえて使用している理由が、ここにあります。

03 終末期の考え方

当たり前を持ち込んではならない

病院では、終末期となると医師が毎日診ることは稀なことも多く、ご家族が希望しない限り担当医と話すという機会も少ないでしょう。
呼吸が浅くなると看護師が「先生を呼んできますね」と言って、最後に医師が死亡確認をするという場面はよくある話です。

老人ホームなどでは、ご家族は半年に1回くらいしか訪問できず、半年前の元気な姿と目の前のやせ細った姿を重ねて、“こんなになるはずがない”と関係者に疑念を抱くこともあります。

在宅医療においても、経験がない、あるいは在宅医療の本質が理解できていないと、「麻薬が効いているので痛くないはずです」とか、
「十分な量を出していますから、また来週に来ますね」といったように、つい機械的な対応や訪問になりがちです。

以上のような場面は珍しい光景ではなく、医学的には間違った行為でもありません。

しかし、当法人が考える終末期医療においては、明らかに間違った行為と認識してほしいと考えています。

一貫した患者・家族に寄り添うということ

最近では、ご家族の死を経験する機会がほとんどありません。
祖父母ならともかく、自分の親の場合、誰でも冷静でいられないのは当然でしょう。

傍で見ているご家族にとっては、薬が効かなくなった、気持ち悪くなったときにどうすればいいのか、あるいはこの先どうなるのかが不安で、
毎日朝を迎えるのが怖い、といった感情を持つのは当然であり、心配なあまり次の訪問を待てずに病院に連れて行くかもしれません。

よく、医療現場では「自分の親のように対処しなさい」といわれますが、実行が伴っているかどうかはかなり疑問です。

本来、こうした心理のご家族に対してもサポートすることも終末期の在り方と理解できていれば、医療者としてなすべきことは
自ずと分かるはずで、定期訪問だけにはならないでしょう。

要は、医師としてというよりも、同じ人間としての想像力です。

終末期の場合、医療行為をしなくても、毎日話を聞いてあげたり、医師が傍にいるだけでも痛みを和らいだ気がするものです。
ご家族も、医療者と話せるだけで安心につながります。
終末期における日々の過程を共有することで、ご家族もやがて迎える最期を受け入れられるようになるのです。

医療行為の有無だけではなく、患者さんは何が不安でどうしたいのか、それをご家族にどう伝えているのかを現場で確認し、亡くなるまでを
一緒にサポートしていくことこそが、当法人が考える終末期です。

在宅での終末期のいいところは、最期を迎えるまでの間にご家族を巻き込めるところにあり、これは、在宅医療と終末期に一貫した基本的で
大切な考え方です。

最後の1カ月ともなれば毎日訪問し、場合によっては1日2回、訪問が1カ月で40~50回となることもあります。
毎日訪問することは確かに手間ですが、一緒に最期まで戦った同士のような感情が生まれ、
これは、医療者にとっても確かなやりがいとなるはずです。

イメージ:終末期に向けた訪問回数のイメージ

「患者さんの命を受け継ぐ」という役割

お亡くなりになる際にだけ訪問しても、看取り件数1としてカウントはできますが、患者や家族の安心につながる日々の行為は、数値となって現れるものではありません。
また、患者や家族の安心につながる行為は医療教育で学べるものではなく、ガイドラインに書いてあることでもありません。

ガイドラインどおりに肺炎なら抗生物質を出す、病院の外来で1週間分の薬を処方して終わる、それは決して間違った行為ではありません。

ですが、終末期のサポートにおいては、あえて点滴にして訪問回数を増やす、薬が確実に服用されているかを自分の目で確かめるという判断が、当然の行為でなければならないと思います。

わざわざ足を運ぶという数字となって現れにくい行為こそ、患者さんやご家族からの高い信頼を得る秘訣です。
そして、高い看取り率や病院からの紹介が多いという信頼が、数字となって後からついてくるのです。

また、看取った患者さんのご家族の大半が、亡くなった後にわざわざ当院まで挨拶に来てくれていることも信頼の証であり、私たちの大きなやりがいとなっています。

私たちの理念には「患者さんの命を受け継ぐ」というものがあります。単純に一つの死として捉えるのではなく、患者さんやご家族と一緒に最期を経験することで、例えば「お父さん、こんな人だったな」と家族のいい思い出となり、命がしっかりと受け継がれていくような終末期のサポートとなります。
このようなサポートの提供が当法人の役割であると、強く思っています。